みずの備忘録

どこかの国公立大の理学部生。ジオがすき。いきものも好き。

ヒトはなぜ自殺するのか〜死に向かう心の科学〜

第1章無の誘惑

この章では、序論、つまりどういうことを書くのかや、自殺を考えたことがあることを含め著者の今までの人生について述べられている。

 

第2章 火に囲まれたサソリ

この章では、心があり、更に自殺するのは人間だけか又は動物もかについて考察している。心に残った部分について残しておこう。

 

マルティン・ブリューネという精神神経科学者は自殺行動にVENというニューロンが何らかの役割を果たしていると考えている。

VENは大型類人猿、イルカ、ゾウなどとりわけ複雑な社会をなす動物にあるが、ヒトの脳ではそれが大きく、数も格段に多い。VENの真の役割は未だ謎だが、ヒトの適応的成功に社会的認知がいかに重要だったか分かる。

また、精神病患者の脳のうち、VENが密に存在していたのは自殺者の脳だった。

ブリューネらは『否定的事故評価、自己卑下、恥辱、罪悪感、絶望感に繋がるやり方で自省する事が精神病患者の自殺のリスクを高くするのかもしれない』と推測する。つまり、精神病だけでは自殺は引き起こせない。精神病患者が自殺するようになるためには、まず自分が精神病だと自覚し、その事を他の人に知られていると思う必要がある。

このように著者は述べている。私なりに分かりやすく言い換えると、他者の目に悩まされ、恥辱を感じることが自殺を引き起こすのだと考える。著者も述べていたが、武士は罪に問われて殺されるより切腹する方が栄誉としていたのは好例だろう。

 

最後に著者は、動物に心がないとは言えないが、自殺をするのはヒトだけだろうと結論づけている。例えば、飼い主が死に、悲しみのあまり拒食症になったイヌがいても、それは食欲の減退の結果死んでしまっただけであり、イヌは死ぬことを予見していたわけではないだろうのしている。自殺の定義には死ぬ意図があるか否かが重要であり、このような場合には自殺の定義的特徴が欠けているであろう。

 

第3章 命をかける

この章では、自殺のような明らかな自己破壊行動が、実は適応的目的のために進化した、つまり自殺行動をもたらすことがあるのは、その方が生存には有利な面があるからなのだろうか、ということについて考察している。

現在マクマスター大学で心理学の教授をしているデニス・デカタンザロは思春期の頃に兄が自殺したことをキッカケに進化や適応などの自然科学に興味を持った。彼の『自己破壊と自己保存の数学モデル』というアイデアが面白かった。

そのモデルが示唆していたのは、私たちが、自分の直接的な繁殖の(すなわち多くの子どもをもつ)見込みがなく、同時に、生き続けることが生物学的血縁者の繁殖を妨げて、彼らの遺伝的成功を脅かす時に、自殺することがある。

というものだ。著者があげた具体例だと、生活が上手くゆかずギャンブルに失敗して借金を抱え、成功している兄弟に寄生し、本来ならその兄弟の可愛い子どもたちに行くはずの資源を食いつぶす、無精髭を生やした中年男のイメージがそうであろう。デニスの論文の引用が以下である。

もしある人の現在や未来の行動がその人の遺伝子の地位を変える可能性が無いのなら、自殺を妨げる生態学的圧力もない。もし子孫を残す可能性がなく、自分自身や家族を適切に助けることが出来ず、遺伝子を共有するほかの人々の繁殖にも寄与出来ないなら、死んだとしてもその人のもつ遺伝子の頻度には影響が無い。その結果、自殺が遺伝子プールからまだ除去されていない遺伝子を除去することはない。このように、自殺が起こるように見える限らせた生態学的条件下では、自殺を妨げる淘汰圧はないだろう。・・・・・・その人が資源を消費だけして生産的でなかった場合には、それがその人の生存に反するように作用する。「生きる理由がない」場合には、生きないというどんな些細な理由も行動に影響をおよぼすようになる。

ただ、この説には難がある。例えば、自殺して残されたものたちに大きな悲しみや不幸をもたらすし、後追い自殺をする人も出てくるかもしれない。また、自殺者が出たという汚名がついてまわり、その家族は結婚相手を見つけられない可能性だってあるからだ。(勿論死ぬ事で汚名が消えることだってあるが)

 

また、進化心理学者のポール・ワトソンとポール・アンドリュースは、「無快感の持続は鬱病の特質であり、快に注意が向かないようにするための方策の反映なのかもしれない」と論じている。

鬱の感情麻痺効果は、不必要な快の出来事に注意が逸れないようにして、重要な適応問題の解決に集中出来るようにするのだという。著者曰く、鬱による精神運動抑制(セロトニン不足によって体の動きが鈍くなる)」と考え込むことの組み合わせは、その人の遺伝的利益に重大な脅威を与える切迫した難題に焦点をあてさせるために自然が採用したやり方では無いかとしている。鬱になると、一般的に基本的な認知機能が損なわれるが、もし鬱で自分のおかれた状況を正確に把握出来ているのなら、その人たちはうまくやっているのだ。

つまり、鬱は実は意味のある(健康的ですらある反応)だと言えるかもしれない。

ワトソンとアンドリュースは次のように結論している。「セラピストが効果的な話し合い療法を行える時でさえも、惨めな状態ではあっても、鬱が社会的ネットワークに対して適応的な力を発揮できるようにするのがベストかもしれない。・・・・・・そのもとにある社会的問題に対処することなく薬だけが与えられるべきではないし、また薬が鬱の潜在的な適応機能―抑鬱的反芻を弱めるものであってはならない」

著者はデニスと反対の意見を述べる学者の意見を述べ、最後にこう結論している。自殺が進化的適応だとは言いきれないが、否定もできない。

 

第4章 自殺する心に入り込む

この章では、著者の敬愛する社会心理学者のロイ・バウマイスターの逃避説を説明している。自殺する人間は自殺に至る6つのステップを順に移動していき、その移動ごとに危険度も増していく。ただ、これらのステップを踏んでもそこから抜け出すことは可能だという。

 

段階1期待値に届かないこと

自殺者の大部分は平均以上の生活をしているという。それまで平穏無事で快適な状態にあって、突然生活水準が大きく落ち込んでしまうと、それがその人を危険な方向に向かわせることがあるとロイは警告している。

貧乏なだけでは自殺のリスク要因にはならないが、富裕から貧困への転落はリスク要因となる。また、生涯独身であることはリスク要因とはならないが、結婚した状態から突然独身となると大きなリスク要因となると言う。

段階2 自己への帰属

自殺する人間は、自分自身を嫌悪するが、他方でほかの人々はみな良いのに自分だけが悪いという誤った印象を持ちそのことに苛まされる。鬱状態になると、社会的拒絶のにサインに過敏になり、まわりの人間がどの程度私たちの欠点に注目しているかを過度に気にし始める。自己はまったく魅力にかけ、どうしようもなく芯まで腐っているように思える。

そして、ふつうの善良な人々から自分が完全に切り離されているという感覚を持つ。我々は誰かが自殺をしてその真実を知ると、何故信頼できる人に打ち明けなかったのかと問わずにはいられない。しかし、心を開くことはその人にとっては恐ろしいことであり、打ち明けるよりも自殺する方が相対的に苦しみの少ない選択肢として感じられたのである。

段階3 自意識の高まり

ロイの説の核心は、自殺の動機が不快で鋭利な自意識から逃れたいという欲求だということにある。自己破壊の思考回路にはまり込むと、自己中心的になり、他の人がありえないほど遠くにいるように感じられる。これは所謂ナルシストとは異なり、自分の欠点への不必要な執着である。すなわち、個人的基準に対して自分を絶えず、厳しく比較する結果として、自分がいかに卑劣で可愛げがなく、無用な人間であるかを常に考え、自分を意識することに耐えられないような苦痛をもたらす。

また、自殺をした人の遺書やSNSに投稿された文章を見てみると、偽物の遺書(自殺するとしたらという仮定の下、自殺傾向のない人に書かせた遺書)と比べ、本物の遺書には一人称単数が頻出する傾向があるという。

段階4 否定的感情

ロイの説では、自殺には意識の喪失という魅力があり、自殺はいま経験しつつある「否定的感情」という苦痛を終わらせることにある。心の平和を見いだせないなら、心の不在の平和のほうを求めてしまうのだ。本当は死ぬ気のない、助けを求めたり注意を引くための自傷行為や自殺未遂でも、これは当てはまりそうだ。自殺未遂により、少しの間昏睡状態に陥って病院で面倒を見てもらったとしたら助けが得られるだけでなしに1種の逃避を得られるからである。

段階5 認知的解体

認知的解体とは読んで字のごとく、認知的にとのごとがバラバラになって、低次の基本的な要素になってしまう。このプロセスの一部として、自殺する人間は、時間が這うように感じられる。現在がエンドレスで、なんとなく不快に感じられ、時計を見る度に「これだけしかまだ経ってないの」と驚かされると言う。ロイは、この現在にしか心が向かないというこの時間的狭窄は、実際は防衛機制であり、過去の失敗に留まり続けるのをやめさせ、耐え難く望みなき未来に思い悩ませないようにする為と考えている。このように思考が解体されて意味の無い瞬間に占められることによって、前の段階からの否定的感情はある程度和らげられる。これは、なぜ自殺の多くが、感情を爆発させた後に起こるのではなく、自分でも驚くような平坦な感情状態の後に起こるのかを説明している。

自殺する人間の認知的解体のもうひとつの側面は、具体的思考の劇的増加である。この具体性は遺書の中に現れる。いくつかの研究によると、遺書の内容は「息子には良い奴になれと伝えてくれ」のような内省的思考を欠いているのに対し、「猫に餌をあげてください」といった日常的な指示が多くなる。

自殺の想念をもつ多くの人は、自殺を図る直前の数週間、没入することを目的として、退屈なルーティンの勉強や作業や仕事に浸り、ロイのいう「感情死」の状態に入る。また、自殺を段取るという暗く単調な作業もありがたい一時的な救済になりうる。この時には遺書の中に肯定的な感情も綴られることがある。ロイ曰く、「自殺の準備をしている間は、もう未来について思い悩まなくてすむ。というのも、もう未来はないと決断してしまっている。過去もそれにより精算され、悲しみや不安を引き起こすことは無くなる。このために臨床心理士でさえ、圧倒的多数が自殺の前に危険を察知できなかったという。実際、彼らに自殺の数週間前の患者の様子について思い返すように言われると、自殺のリスクはかなり低いと思ったと報告されている。

段階6 抑制解除

ロイのモデルでは、段階が進むにつれて、その人は通常の体験から遥かに逸脱した変性意識状態になる。ロチェスター大学の精神科医、キンバリー・ヴァン・オーデンらの研究では、行動の抑制解除の構成要素を明らかにしている。自殺しようとしてる人間は、自殺願望に加えて「自殺のための能力を獲得する必要」がある。この能力は、死に対する恐怖の低減と身体的苦痛への耐性の増加を含んでいる。それは恐怖や痛みに対する体制を生み出す状況に晒されることで獲得される。これこそがら自殺を最も的確に予測する指標のひとつがそれ以前の自殺未遂である理由だ。それはプールの飛び込み台からジャンプするのは一回目が一番怖いのと似ている。

また、恐怖をもたらすほかの身体的苦痛の体験も自殺のリスク要因になる。身体的・性的虐待、戦場体験、DVなども間接的にその人を自殺の身体的苦痛に対して「準備」させる。これこそが、自傷行為が懸念すべきものなのかという理由である。加えて、衝動性、大胆さ、痛みへの耐性といった遺伝的差異もなぜ自殺傾向が同じ家系に見られるのかを説明する。そして自殺行動をしやすくするのは、それ以前の痛み刺激への暴露だけではない。データはその最終段階にある人々が通常の時よりも社会的に受け身で従順であり、これが痛みに身を委ねるのに役割をはたすことを示している。

 

自殺の予防としては、ロイは「このようなプロセスを知り、今の考えが良いかどうかを判断した方がいい。そうすればそれが少なくとも一時的な状態だと気がつける。自分にこう言うといい。『来月も同じように感じてるなら、その時は自殺を考えよう』と。」

 

第5章 ヴィクがロレインに書いたこと

この章では、実際に自殺した高校生の女の子ヴィクトリア(ヴィク)の日記を4章での逃避説のどの段階ごとに追って紹介している。

ロレインというのはヴィクが日記を宛てて書いている架空の人物である

段階1 期待値に届かないこと

ヴィクは裕福な中産階級の家庭で不自由なく育った一人っ子だった。日記にはこうした見かけの状況と自分の感じ方のギャップについても考えていた。「自分の部屋があり、名門校にも通い、私にはこんなに沢山のチャンスがある。幸せなはず。なのにどうしてこんなにわがままなのか。これからの人生が待っているのに、試験の成績に対する不安というくだらない問題にかかずらっている。でもどうしてこのまま生きてゆかなくてはならないのだろう?」

段階2 自己への帰属

日記を通してヴィクは理想化された他者、特にクラスメートと自分を頻繁に比較している。ヴィクはほかの人々のことを悪くいうことは殆どなかったが、自分に対しては執拗に軽蔑し自分の欠点が克服できないという確信を持ち続けた。

段階3 自意識の高まり

ヴィクは自殺へと至るプロセスの一部として、近くのものしか見えない状態、自分の不安の原因から内なる目をそらすことが出来ないという状態にあった。彼女から見るとほかの人々は、「自分の闇とは無関係」のように振る舞い、しかも自分の持つ問題から気を逸らしているように見えた。彼女は、自分の思考からできるだけ距離を取るという心理的戦術の機能と効用をよく知っていた。何もかも残したまま、自分の問題から文字どおりエスケープする旅を夢想した。

段階4 否定的感情

ヴィクは深刻な心理的苦痛の状態にあったが、その苦しみを親友グレイス以外に打ち明けることは無かった。「鎮静作用のある憂鬱」が支配し、明るい未来を考える能力が自分の否定的感情によって損なわれていることに気づいていた。

段階5 認知的解体

自殺の予感が強まるにつれ、ヴィクは倦怠感―情熱が鈍麻し、計画的でなくなり、時間がゆっくりすぎる息苦しいグレーゾーン―に陥った。彼女は自分の思考プロセスのこの変化を「急激ではないが、着実に時分を蝕んでゆく対処メカニズムのようなもの」「空腹でもないし、満腹でもない。何かをしたいわけでも、退屈でもない」と述べている。しかし気持ちを切り替えることは出来なかった。のしかかってくる宿題の重圧が彼女を動けなくしていた。何をしなければならないかは分かっていたが、それは感情に繋がらなかった。さらに困ったことに、未来を予測する能力が損なわれていることに彼女は気付いた。「今は未来が自分の体さえみえない薄暗い場所のように感じられる。・・・行く手にはなにもない。」ヴィクの書くものを読むかぎりでは、逃避の勝道はまだ強かったが、心のなかで逃げてみることが急速に出来なくなった。代わりに彼女は、思考が熱を帯び沸騰するのを許すようになる。自分の死の詳細を考えることに熱中し始めたのだ。明日がないことになぐさめを見出して、ヴィクの気持ちは安定し、不安も和らいだ。しかしこれは危険な兆候だった。ヴィクは日記では、自分の死がほかの人々にもたらす苦しみのことを思って自殺する事にためらいを見せていた。しかし次第にら無感動の状態が計画の遂行を阻んでいたこの感情を覆い隠すようになる。「愛してくれている人たちに対して自殺という最悪なことをする。驚くことにそれでいいと思っている。」「驚くことに」という表現からわかるように、彼女はそのような感情が自分らしくないことに気がついていた。彼女は自分が制御不能なプロセスに捕まってしまい、悲劇が展開してゆくのをただ、見ているしかないということが分かっていた。

段階6 抑制解除

3月半ばごろ、ヴィクの思考ははっきり死にむくようになった。ヴィクの書くものには、シュナイドマンの言う赤信号のことば「だけしかない」が増えている。生きるか死ぬか、彼女には2つの選択肢しか見えなくなった。抑制解除のプロセスが進行中だった。「本当に怖い。でもしなければ。・・・怖いのはそれが上手く行かないこと。どうか、うまく行きますように。そのことが頭から離れない。」ヴィクの思考は完全に自殺に飲み込まれてしまっていた。ヴィクは自分の死が愛する人たちに与える精神的ショックのことを考え続けていたが、日記の終盤では永遠に逃避したいという願望がそれを圧倒し、自殺してしまう。

 

6章 生きる苦しみを終わらせる

この章では、メディアを介しての自殺の伝染について考察している。

ティーヴン・スタックによると、自殺の伝染は芸能界のスターの自殺報道の後に起こることが多い。ニュース報道の程度(その自殺を伝えた報道機関の数で測定される)と模倣自殺の間には正の相関があるという。第1面の自殺記事や自殺の頻繁なニュース報道にはあきらかに問題があるのだ。

また、自殺におけるインターネットの役割が顕在化した。そのひとつはネット心中であり、2005年に入間市で互いに面識のない3人の若者が自殺サイトで出会い、練炭を燃やして自殺した。日本のメディアはこの方法をネット心中として報道し、事件報道から数ヶ月の間にネットを介した集団による練炭自殺が多発した。

いっぽうで、ネットを介して自分と似た状況の人と繋がって心の安らぎを得る場合もある。これがどのくらい自殺を抑止しているかは測る術がないが、助かっている人もいるだろう。

 

第7章 死なないもの

この章では、自殺と人々の死や未来への認知、さらに宗教について述べている。

宗教と自殺の関係は込み入っていて、死後の世界に対する信念が自殺という意思決定に影響する証拠も、そうでない証拠もある。ただ、どの研究でも宗教を信じている人はそうでない人より自殺することも、自殺について考えることも有意に少ないという。

興味深いことに、人間は生まれつき死後の世界を信じているという。これは先を予知する能力の錯覚である。著者が行った実験では、人形のワニとネズミを使い、ネズミがワニに食べられるという場面を年少児と年長児にそれぞれみせた。年少児は年長児に比べ、ネズミが死んだ後も心理的な能力を持っていると答えることが多かったという。もし死後の世界の信念が単に文化の産物や教わったことであるなら、これとは逆の結果になったはずである。実際、年長児になるほど、霊的なことや宗教的な教えに触れる機会が多くなる。以上のことは、死後も意識は残るという信念が人間の「デフォルトの姿勢」だということを示している。

自殺は心のシステムの欠陥なのかもしれない。1990年代半ば、進化生物学者のダニエル•ポヴィネリとジョン•キャントは、自己意識の起源に関して「樹上移動仮説」と呼ばれる独創的な説を提案した。アウストラロピテクスが出てくる以前、その祖先となる種にオレオピテクスという大型の類人猿がいた。(現在の小学5年ほどの大きさ)オレオピテクスはオランウータンのように樹冠付近にいて枝から枝へゆっくり這って移動していたと考えられている。大型のオレオピテクスは、枝を掴み損ねて落ちるとほぼ確実に命取りになったため、次の動きを賢明に選択しなければならなかった。ポヴィネリとキャントは、折れやすい枝に巨体を置くというこの問題が、のちに人間の想像力の大火を引き起こすことになったきっかけの火花だったと推測している。心の中でありえる未来の環境に自身を投影することによって、オレオピテクスは頭の中で体の動きをシュミレーションしてうまく動くことができたのだろう。

しかしいったん自身を未来に投影できるようになると、可能性をあれこれ考え、もしあの時こうだったらということまで考えて動けなくなってしまったのだ。想像力は諸刃の剣となったのだ。