みずの備忘録

どこかの国公立大の理学部生。ジオがすき。いきものも好き。

屍者の帝国〜伊藤計劃×円城塔〜

今回読んだのは屍者の帝国伊藤計劃の本は高校の時からずっと読みたいと思っていたので、今回漸くその願いが叶った形だ。

 

文庫本サイズで500ページを超えており、テーマも中々難しかった。

まず舞台設定は1800年代後半。歴史改変SFや、時代小説という分類でよいのだろうか。

屍者復活の技術が全欧に普及しており、屍者は所謂ロボットのように産業のあちこちで使われている。物の生産から兵士まで、生活に浸透している。屍者と生者の違いはなんと言っても意志(魂)を持つかどうかの違いだ。屍者は命令通りに動くのみだ。

また、屍者化が出来るのは人間の死体だけで動物には出来ない。それは動物には魂がないからとされている。

なるほど、わかるようなわからないような。

 

主人公は医学生のワトソン。優等生の彼は屍者化技術についての研究をしている教授に目をつけられ、大英帝国の諜報員となってアフガニスタンにわたり、屍者の帝国を作ろうとしている人物であるカラマーゾフと会う。そしてワトソンは、彼から最初の屍者である「ザ・ワン」とザ・ワンを生み出したフランケンシュタインが書いたとされる「ヴィクターの手記」を探すよう依頼を受け世界を駆け回る。ザ・ワンがほかの屍者とは違うのは人間と同様に意識や意志を持つことである。そのザ・ワンとはどういう存在なのか、何が目的なのか、そして人間とは?私とは?

というのがざっくりした物語の概要である。

 

死者と生者の違いは何か、生命とはなにか、私は誰か、意識とは何か……そんなことを深く考えさせられた。

 

とりわけ心に残った言葉を書き残そう。

「鶏は卵が卵を産む手段にすぎない」

「生命とは、性行為によって感染する致死性の病」

「辞書は辞書自体で意味を持つかね。ただの循環があるだけだ。ある言葉がほかの言葉を定義し、その言葉は別の言葉を定義している。辞書という世界の中では、本質から切り離された循環が永遠に空疎に回り続ける。人間が魂と呼ぶのはその循環の中の流れ、存在の大いなる循環だ。起源は原理的には存在しない。鶏が卵を産む。卵が鶏を産む。原初の卵は存在したことがなく、宇宙の開闢(かいびゃく)を告げた鶏はいない。」

 

「鶏が先か、卵が先か」や「私が蝶になった夢を見ているのか、それとも蝶が私になった夢をみているのか」

有名なこれらの言葉は私が好きな言葉の一部だが、この本を読むうちにふとこれらの言葉も思い出された。

 

1番心に残ったのは、ワトソンがザ・ワンを見つけてザ・ワンが屍者とは何か、人間とは、意識とは何かについて語るシーンである。

 

ザ・ワンは屍者の研究をしていて、自分と同じような存在の花嫁を作る事を目的のようだった。(というのも、ザ・ワンの消息は最後不明になり、その目的も本の中では明確に語られていないのだ)

ザ・ワン曰く私たちの意識を形作っているのは体内に住む菌核だと推測している。菌核の意志によって私たちは行動してるとも。動物が屍者化を受け付けないのは、単にこの菌核が動物に対してなんの影響も与えないからだと。

一方、最初ワトソンを諜報員にした教授の一人はそれを菌核ではなく言葉だと語っているので、どちらが正しいのか本の中でも分からないが、個人的には菌核説を面白いと思ったので、ここでは菌核説を前提で書く。

ザ・ワンが屍者を操れる(途中屍者を操りワトソン達を攻撃するシーンがあった)のも、屍者の言語、否、正確には菌核の言語を理解しているからと語る。

通常、菌核は人間が死ぬと共に死に、意志を持たない死者となるが、屍者化技術を受けて屍者の中で生き続けるようになれたという。菌核は宿主が死んでも生き続け、屍者を増やそうとする「拡大派」とこれまでのように宿主が死んだら自身も共に死ぬという「保守派」、そしてその他多様な考えの菌核があると言う。

拡大派がもし多数派になれば、生者の中の菌核の拡大派が生者を乗っ取り、生者を「屍者化」することになるだろう、とザ・ワンは語る。もしそうなれば、誰もが同じような思考・行動をする屍者の帝国になると。争いは決して生まれないと。しかしそんなものは人間にとっても良くないし、菌核にとっても良くないだろうとも。

そしてザ・ワンはワトソン達の目の前で菌核の「拡大派」との対話を試みるのだ。

 

読み終えた時の感情を上手く言語化出来ないが、どこか悲しいのにとても感動した。この時の感情はどうしても憶えておきたいものだ。